機械式時計は、歴史の霧のなかに消え去ろうとしていた。

ジョー・トンプソンによるシリーズの紹介と、“クォーツ革命の簡潔な歴史(大きな4革命の第一部)”、そして“ファッションウォッチ革命の簡潔な歴史”を紹介した。

2部構成の前編は、1989年4月にサタデー・ナイト・ライブのデニス・ミラー氏がウィークエンド・アップデートの中で、300万ドルを超えた金額で落札されたばかりのスイス製機械式時計について、皮肉を言ったところで幕を閉じた。

パテック フィリップの創業150周年記念につくられたCal.89は、33もの機能という驚くべき数のコンプリケーションを搭載し、スーパーコピー時計さらにその落札額の高さから世界中の話題をさらった驚異の時計である。

そして、機械式時計が持つ優れた耐久性を改めて実感させるものだった(誇張なしに4種類のチャイムが搭載されていた)。クォーツウォッチの時代になって20年、機械式時計は消滅しなかったし(1970年代には誰しもが終焉を迎えるかと思っていた)、まさに復活を遂げようとしていた。500年前の技術にしては悪くない結果だ。

「機械式時計は、市場の上端でラザロ(イエスの手により死からよみがえった男)のような復活を遂げた」と、私は1990年の春のレポートでこういっている。「そしてこれはスイスルネッサンスの大きな特徴となっている。機械式時計の輸出は、過去2年間で44%増の15億ドルに達し、これはスイスの輸出売上高の39%を占める結果となった。パテック フィリップやロレックスは、スイスの伝統的なハンドメイドクラフトマンシップの威信、価値、希少性に則って、現在も自社で機械式ムーブメントを製造しており、過去最高の売り上げを記録している。現在ほかのブランドも彼らのあとに続いている。今年(2017年)のバーゼルワールドでは、多くのブランドが久しぶりに自動巻きムーブメントを披露し、会場中に新しい機械式時計による音色を演奏した。機械式時計の復活は、大衆向けのマーケットにも向かうかもしれない。SMH(現在のスウォッチグループ)は、今年中に機械式のスウォッチを発売する予定だからだ」

それについて、私はふたつの点で間違っていた。ETA社の自動巻きムーブメントを搭載した、85ドル(日本円で約1万1000円)のプラスチック製ウォッチ、“スウォッチ オートマティック”が登場したのは、1990年ではなく1991年だった。もうひとつは、機械式時計が大衆向けのマーケットに進出しなかったことだ。またSMHのCEOであるニコラス・G・ハイエック・シニアはこの時計をローンチしたとき、そのような意図を持っていなかったという。当時ハイエックは時計用電池の入手が限られているため、クォーツウォッチがまだ珍しかった多くの第三市場のためにつくったと語っている。なお本当の理由は、業界唯一のひげゼンマイの供給元であったSMHによるニバロックス社のヒゲゼンマイの生産を増やしたかったからだと、のちに彼は教えてくれた。1990年の機械式時計の数量はまだ200万本にも満たず非常に少ないものだった。実業家だったハイエックは、もし機械式が復活するのであれば、この最も重要なムーブメントパーツに、より高い生産性とそれによる生産コストの節減を望んでいたのだ。いずれにせよ自動巻きのスウォッチは機械式にとってはいい前兆だった。

はっきりいうと、1990年のバーゼルワールドで大きな話題を呼んだのは機械式ではなかった。スイスメイドのクォーツウォッチで成功したのである。クォーツ技術がいまだ世界をリードしており、スイスは新世代のヒーローブランドでそれを修得していた。アメリカのゲリー・グリンバーグが所有していたモバードは、1983年に200万ドル(日本円で約4億7500万円)だった売上が、1989年には7000万ドル(日本円で約96億5720万円)にまで上昇している。またレイモンド・ウェイルのクォーツウォッチの生産量は、過去2年間で76%増加して1989年の売上高は9000万ドル(日本円で約124億1640万円)に達したし、グッチウォッチのライセンスを持っていたセヴェリン・ワンダーマンは、1983年以来、2年ごとに売り上げを倍増させ、3億3100万ドル(日本円で約456億6475万円)にまで達していた。1980年代初頭に、クォーツショックでつまずいていたスイスが、日本の配下になるのではという懸念はすでに消えていた。

復活しはじめた機械式時計への関心が急拡大していくなか、ロレックスのデイトナは大きな役割を果たしてきた。

そして機械式時計も流行に乗りつつあった。それは1990年に開催したバーゼルワールド、グロセール・フェストハレのボールルームでのこと。同イベントの運営は、ウォッチオークションの権威であるオズワルド・パトリッツィ氏に400点ものオークションを開催することを許可したという異例の展開となった。6時間にも及ぶイベントには、1000人近くの人が参加した。驚くべきことに、パトリッツィ氏はオークションの冒頭で「現在のコレクションから」と言い3本のロレックス デイトナを出品。機械式時計回復のきっかけとなったクロノグラフの流行が、脚光を浴びたことを証明したのだ(前編参照)。このブームはデイトナマニアに牽引されながら、その後も続いていく。1992年に私は「ロレックス デイトナ クロノグラフは依然として大流行している」とレポートした。「ロンドンにある王室御用達の宝石商、ガラードには、1日に8~10件の時計の依頼が入る。ただしガラードに渡るデイトナの割り当ては半年に1本のみだ」

Cal.89がもたらしたもの

ユリス・ナルダン テリリウム ヨハネス ケプラーで天文三部作シリーズの完成に至り、現代の時計業界に新風を吹き込んだ。(Photo: Courtesy Sotheby’s)

1990年代初頭の機械式時計業界ではもうひとつ、コンプリケーションブームが到来している。Cal.89を皮切りに、10年前の機械式時計のパイオニアたちから、次々ととてつもないコンプリウォッチが登場したのだ。これらの時計は、(さまざまな機能を組み合わせて)クロノグラフをはるかに超える複雑機構を備えていた。1991年、IWCは世界初のグランドコンプリケーション腕時計を発表、その価格はなんと15万ドル(日本円で約2020万円)だった。しかしその値段だとしても、数カ月で350件の注文が入り、なかには7年待ちという人もいた(スイスの伝統に従っていうと、グランドコンプリケーションには永久カレンダー、ミニッツリピーター、クロノグラフが含まれていなければいけないもので、さらにピュリストはスプリットセコンドであることにもこだわる。残念ながらIWCのモデルはそうでなかったが)。

1992年、ブランパンはコンプリケーションウォッチだけのコレクション、“時計職人の芸術品ともいえるシックス・マスターピース”を発表し、そしてその6つの複雑機構を1本の時計に集約させた“1735”を発表している。1735は、世界では2番目となるグランドコンプリケーションウォッチ(クロノグラフはスプリット仕様)だった。ブランパンはこれを、1本60万ドル(日本円で約7600万円)の価格に設定し、6年間で30本作ると宣言。それは見事完売している。

このスリムなミニッツリピーターは、1992年にブランパンが発表したシックスマスターピースのうちのひとつ。

同年、ユリス・ナルダンは1985年作のアストロラビウム・ガリレオガリレイから始まる天文三部作シリーズ、トリロジー・オブ・タイムの最終作であるテリリウム・ヨハネスケプラーを発表した。

1993年、IWCはさらに壮大で、当時最も複雑なグランドコンプリケーションウォッチ、イル・デストリエロ・スカフージア(イタリア語で“シャフハウゼンの軍馬”を意味する)を発表。これはスプリットセコンドクロノグラフ、ミニッツリピーター、永久カレンダー、ムーンフェイズ、トゥールビヨンなど、合計21もの複雑機構を搭載していた。価格は35万ドル(日本円で約3895万円)で、125本の数量限定生産、さらにこの時計には750点もの部品を使用していた。

イル・デストリエロ・スカフージアは、1993年に発表された当時、その複雑さゆえに機械式時計業界に激震が走った。現代の水準からしても、非常にハイレベルな時計だと思う。(Photo: Courtesy Sotheby’s)

IWCのヘッドウォッチメーカーであるクルト・クラウス氏は、CADの技術を駆使してムーブメントを設計していた。Cal.89にも見られるようにCAD(設計や製図をコンピュータで行うこと)は機械の超小型化という、新しい世界を切り開いたからだ。IWCは1988年にCAD/CAM技術を導入している。私が1996年にIWCを訪問した際、「クラウスのデスクにルーペがない。彼はパソコンを2台、モニターを2台、そして電子パッドとタッチペン、計算機を駆使して仕事をしていたのだ。これらが、今日の“マスターウォッチメーカー”のマストツールなのだ」と執筆している。

これらの時計はハイコンプリケーションの新潮流の代表格であり、その勢いは腕時計コレクターの増加にもつながり、彼らを喜ばせた。1993年になると、実はスイス国内では複雑時計の急増に不満の声が上がっていた。その年、パテック フィリップのチーフを務めていたスターン氏は「市場に負荷がかかっていると感じる」と私に言った。「パテック フィリップのコンプリケーションの展開はこの1年で減少しました。私たちは量ではなく質にこだわっているのだと伝えたいのです」と同氏は話す。スターン氏は量だけが増えていて、クオリティが低下していると感じていた。ミニッツリピーターが5万(日本円で約375万円)から50万スイスフラン(日本円で約3765万円)で売られているのを見て、コレクターたちが何を感じ取っていたかはわからないだろうと彼は言う。

パテックはコンプリケーションの生産量を減らしたが、業界はその流れにはならなかった。翌年、当時新しいコンプリケーションとして注目されていたトゥールビヨンを搭載した時計が6社から発表されたのだ。複雑機構の製造経験のない会社がクリストフ・クラーレのような時計師などからトゥールビヨンのムーブメントを手に入れることができるようになっていた状況だったのである。例えば1996年、フィリップ・シャリオールは11万ドル(日本円で約1495万円)のトゥールビヨンウォッチを発表し、それにトゥールビヨンマニアが食いついている(それはその後10年間で瞬く間に普及する。あるデータでは2004年から2005年の2年間だけで117本ものトゥールビヨンモデルが発表された)。

機械式の復活は、トップの市場だけに混乱を招いていたわけではない。多くの消費者にとって昔の技術は実は目新しいものだったのだ。1993年、ジュネーブで開催されたSIHHにてカルティエのCEO、アラン・ドミニク・ペラン氏は異例の訴えをした。それは機械式時計とクォーツウォッチはまったくの別物であるということを、一般の人々、そして業界の一部の人々に発信してほしいとジャーナリストたちに伝えたのだ。ペラン氏は「何千ドルも出して買ったこの機械式時計が安い時計と比べて性能が悪い! というクレームの電話がかかってくるんです」と語った。

このような事態となっているスイスの一方で、国境を越えたドイツでは脚光を浴びることなく、別の機械のリバイバルが始まっていた。1991年9月15日、ザクセン州グラスヒュッテで新設された時計会社ランゲ・ウーレンGmbHでは15人の従業員が働き始めた。新しい機械式時計の生産地が誕生したのである。

その前年、東西ドイツが統一され、その結果、共産主義の東ドイツに資本主義が戻り、グラスヒュッテには高級時計の製造業が戻りつつあった。この街は1845年にドイツの高級機械式時計製造の中心地として誕生した歴史がある。しかし共産主義者のもと、第2次世界大戦後に残ったこれらの産業は、最初は機械式、次にクォーツという安価な時計をつくる巨大な団体へ変貌を遂げる。統一後、その団体は眠りについた。その代わりグラスヒュッテには、機械式時計のみにこだわって製造する5つのブランドが誕生した。それがA.ランゲ&ゾーネ、グラスヒュッテ・オリジナルとその姉妹ブランドであるユニオン、ミューレ グラスヒュッテ、ノモス グラスヒュッテである。

ドイツによる時計製造は、19世紀から続く伝統に根ざした、独自のテクニカルコードと異なる美学を発展させた。

そのなかで最も有名だったのがランゲだ。ドイツのVDO社(主にスピードメーターを手がけるブランド)はランゲを復活するべく、いち早く動いた。VDO社はスイスにあるジャガー・ルクルトや、IWCシャフハウゼンのブランドを持っており、時計産業にも精通していた。そしてIWCのCEOであるドイツ人のギュンター・ブリュームラインを新CEOとして、新生ランゲ・ウーレンGmbHの責任者に任命した。ブリュームラインとVDO社は、ランゲの創業者であるフェルディナント・アドルフ・ランゲの子孫、ウォルター・ランゲを新ランゲ社の会長として故郷に呼び戻す。彼らの目標はランゲが“グランド・トラディション”と呼ぶハイメカニカルな腕時計を作ること、さらにブランドの美学と理想的な技術を復活させることだった。その後4年にわたり、VDO社は1000万ドル(日本円で約13億4700万円)をランゲに注ぎ込んだ。オフセンターの分表示、大きな日付表示、“アップ/ダウン”パワーリザーブ表示を有する、ランゲ1を筆頭とした4モデルが1994年にデビューを果たす。ほかのモデルにはサクソニア、アーケイド、プール・ル・メリット トゥールビヨンがあった。

ほかにもノモス グラスヒュッテのように、ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツで立ち上がったブランドも存在する。

10年後には、独自のスタイルと製造技術を持つグラスヒュッテの各社が年間4万本の機械式時計を生産するようになる。高級機械式時計は、もはやスイスだけのものではなくなっていた。共産主義の苦しみから抜け出したグラスヒュッテは現在も続いている機械式時計奇跡の復活の、もうひとつのマイルストーンだったのだ。